映画『教誨師』より

私が家でいる時間が

多くなってくると、

 

気分が塞ぎこんだり、

ネガティブな発想に

 

なってみたりと・・・・、

よろしくないと思って、

 

先日、

 

映画の日(毎月1日)で

あった111日(木)に

 

映画を堪能してみました。

 

サラリーマン時代は、

 

“ずっと、同じところに

座っていることに

耐えられない”

 

という思い込みがあり、

 

映画館で

映画は一切見たこと

がありませんでした。

 

幼い頃の記憶を

たどってみても、

 

映画を見に行った

記憶はほぼありません。

 

そんな

 

私ですがサラリーマンを

辞めて、

 

“心理セラピストになろう”、

と決心した後は、

 

“心理セラピストとしては、

いろいろなクライアントさんに

出会うから、

様々な境遇に

置かれた人達

 

もしくは

 

様々な価値観を

理解して、

受容しないと

いけない”

 

と考えて、

少しずつではありますが、

 

“映画館で映画をみて、

様々な価値観に

 

同一化して

その感情に

 

浸りきってみたり、

脱同一化して

 

解離させた状態を

経験してみたり”

 

しながら、

自分自身を

 

心理セラピストとして

トレーニングしてきました。

 

今回取り上げた

作品は『教誨師』

 

大杉 漣さん生前最後の

主演作品です。

 

教誨師(牧師)とは、

ウィキペディアによると

 

“受刑者に対して、

教えさとす人、もしくは、

教え戒める(いましめる)人”

 

のことで

 

この作品の中では、

6人の死刑囚に対して、

 

大杉 漣さん扮する

教誨師(牧師)が

 

一癖も二癖もある

この6人と面会して、

 

どのように死刑執行前の

気持ちを平安にしていくのか、

 

そして6人それぞれの

死刑囚が刑執行間際に、

 

どのように表情を変えて、

どのように変貌していくのか、

 

その辺りも見る前から

興味深いところでした。

6人の死刑囚は、

もちろんそれぞれキャラクターが

 

多様であり、

教誨師と話すことを

 

楽しみにしていて

饒舌に話す人、

 

世の中、社会情勢が悪く、

自分はその制裁を

 

行ったたけだと

自己正当を主張する人、

 

気が弱く真面目であり、

他人に迷惑かけることが

 

嫌だとして、

裁判で最後まで争わず

 

罪(死刑)を

認めてしまう人、

 

全く話をせずに

設定時間を

 

終えてしまう人、

などであり、

 

教誨師として、

 

“自ら犯した罪を

見つめて、

悔い改めること

 

で残り少ない

人生を豊かに、

 

充実したものに

なるように、

 

聖書の言葉や

讃美歌を合唱することで

 

伝えようとするが

うまく伝わらずに

 

苦悩する場面がありました。

 

教誨師の中にも、

理想と現実の葛藤が

 

あったのだと思います。

 

私にとって印象的な場面は、

いつもは全く口を

 

開かない方がある日、

教誨師と面談中に

 

ご自身が殺めてしまった

被害者の幻影

 

(幽霊のような物体)

を見て、

 

その幻影と会話を

交わしたことによって、

 

今までに見たことも

ないような笑顔に変わり、

 

たいそう教誨師に

感謝をしている

 

場面がありました。

 

その方の意図が

被害者に通じたと

 

錯覚した瞬間だった

かもしれません。

 

またある方は、

自分の愚痴をなんでも

 

聞いてくれる看守を

空想の中に登場させて、

 

看守の色恋話や転勤話、

 他愛もない話を

 

饒舌に教誨師に

話続けますが、

 

全て妄想・幻想。

しかし、教誨師と

 

面会している最中は、

喜怒哀楽な感情を

 

表現していたのが

印象的でした。

 

また別の方は、

面会に来てくれない

 

我が子を思って

日々を過ごして、

 

我が子に会えない状況に

自らを責め続けますが、

 

“もしかしたら、

我が子が面会しに

きてくれるかもしれない”

 

という希望をもって、

なんとか耐え忍んでいる

 

感じが受け取れ、

これまた印象的でした。

 

 

いずれにしても、

 

この方々は“生きるための

意味を見出していた”

 

のだと思います。

 

法治国家日本で

“死刑”という判決を

 

言い渡されたとしても、

 

 自分自身に

何でもいいから生きるため、

 

生き続けるための意味が

見出せた時、

 

どんなに悲惨で、

劣悪な環境に

 

身を置いている人

でも生きることに

 

前向きな気持ちを

持つことが出来る

 

んじゃないのか、

と考えさせられました。

 

ちょうど、思い出したのは、

ナチス統治下のドイツで

 

ユダヤ人強制収容所に

監禁されて、

 

生還した

精神科医

 

ヴィクトル・フランクルが

”夜と霧“

 

 

”それでも人生に

イエスと言う“

 

で書き残した表現と

同じものだったと思います。

 

また別の方は、

いつも日本の国政・政治家や

 

社会情勢、制度を

批判していて、が

 

教誨師に対して、

とても攻撃的な態度で

 

接していました。

 

この攻撃に

いつもは穏やかに

 

お話を聴いている教誨師も、

感情を露わにする

 

場面もあり、

これもまた人間の真実

 

だと感じました。

 

本当は

 

内側で物凄く“恐怖”を

感じているのに、

外側に表現される

感情は“怒り”

 

であるのは、

 

我々の日常生活でも

見受けられる場面

 

だなと思いました。

 

この映画では、

“死刑”という刑罰が

 

与えられ、極限の

恐怖心を

 

持たされた人達

6人の死刑囚)と

 

その人達に対して

刑の執行までの

 

最後の時間を

穏やかな気持ちで

 

むかえてもらいたいと

思う人(教誨師)、

 

普通に人間生きていること

が当たり前に

 

なりすぎて、

 

改めて“生”と“死”

というテーマを通じて、

 

人間の本質を

えぐりだされた

 

この作品

 

私にとって、

心理セラピストとして、

 

たくさんのヒントを

頂けたと思います。