前号(⇒ 役割・立場)で、
古代ギリシャの
哲学者アリストテレスの
言葉で
“人間は社会的動物である”
で
言い表されているように、
人間は個々人では
弱いために、
社会の中で
共同体
(家族・学校・会社・
地域・都道府県など)
に
属して、その中で
決められている
暗黙のルールを
遵守するように
強要されている。
(向社会性を
発揮するため)
それは、個々人が
既に幼少期の
成育環境下で
両親との間で育んできた
可能性が高いと
申し上げました。
日常をよく観察してみても、
人間が
社会的動物がゆえの
役割・立場が
見受けられます。
例えば、
会社組織を
考えてみた時、
私の前職は
医療機器メーカー
でしたので、
製品開発コンセプト
で一番大事なのは、
“患者のため、
医療現場スタッフのため”
であると思われます。
ですので、
企業理念にも、
それに関する文言が
明記されています。
ですが、
開発部と営業部では、
意見が違って、
お互いにお互いをけなし
合っている状況が
ありました。
役割・立場で違うと
長期的には
企業理念で
書かれていることを
お互い目指している
のでしょうが、
日常業務では、
もっと短期的な
ビジョンで、自分達に
とって都合がいいか、
どうかという自問に
置き換わって
しまっていました。
また、販売部員間でも、
売上げ利益を
上げることが大命題ですが、
過剰対応で、
通常よりも遥かに
売り上げが計上されますが、
それは本当に
お客様にとって、
必要なものであったのか、
と感じる場面がありました。
もちろん、多く売上げ利益を
計上できた販売員は、
販売員の役割・立場を
やり遂げている訳ですから、
社内では称賛されます。
ここにも、お客様に
とって適切な
製品を販売する
販売員とお客様に
とって過剰な製品を
販売する販売員の
役割・立場が
現れていて、
“どんな手段をつかっても、
売上げ利益を
計上できる販売員は
素晴らしい”という
考えと通常の正攻法で
売り上げ利益を
上げている販売員では
より多くの売り上げ利益を
上げられる方が“偉い”という
考えが会社内、
特に販売部内では
よく発生していたと
記憶しています。
それぞれの役割・立場で
話すことが
明らかに違ってきます。
同じ目的を
目指しているにも関わらず、
心理的には、
“内・外集団バイアス”という
メカニズム;共同体が
複数あった場合、
それぞれの共同体が
最も大切にしている
暗黙のルールが
違うことによって、
共同体間で対立、
非承認が発生します。
(例えば、我々;
共同体Aの取り組みは
素晴らしいけど、
彼ら;共同体Bは
そうでもない)
人間にとって厄介なのは、
その役割・立場を初めは
忠実に演じているのですが、
終いには、その役割・立場を
演じてることを忘れて、
その役割・立場に
乗っ取られている
状態になってしまう
ということです。
最初は着ぐるみを
着脱して、
装着している時だけは
その配役を
演じていたのが、
最後には着ぐるみが
意思を持ち始めて、
装着している人間が
その意思をもった
着ぐるみに追従せざるを
得ない状況、
装着していること
さえ忘れている、
脱ごうとすると
恐怖心を感じてしまう
状況になってしまう
ことです。
人間は、役割・立場を
果たすために、
新しい知識を身につけたり、
技能を身につけたりして、
その役割・立場を果たすことに
一生懸命になります。
役割・立場を果たす事が
向社会性下での
共同体内に
存在するためには、
必要条件であるからです。
そして、
身に着けた知識・スキルに
執着して大切にし過ぎると、
それを持っていない
人・共同体を
受け入れない状況に
なってしまいます。
もともと、
仏教で“本来無一物”
という言葉
あり、
人間は何かを持って
生まれてこず、
何かを持って死ねない、
:存在する物は、
本来すべて
空(くう)であるから、
わが物として
執着すべきものは
一つもないこと。
という意味です。
人間の欲望(エゴ)を
満たすための
役割・立場は必ず敵を
作り出し、対立して、
お互いを傷つけ合う。
最初の動機付けが
慈悲の心、
無償の愛、
分け隔てのない愛
であったとしても、
役割・立場を
与えられることで、
知らぬ間に
欲望(エゴ)に
変換させられて
しまっていること
もこの世の中では、
よく見受けられます。
本当の意味で
“本来無一物”を理解して、
要らぬ執着心を
手放すためには、
役割・立場を
与えられることで
持たされる欲望(エゴ)に
思い切り乗っ取られて、
その状態を克服した
経験がなければ
できないんでしょうね。
心当たりがある方、
私にご相談ください。