幸せも不幸も同じ

『禍福一如(かふくいちじょ)』

 

という言葉をご存知でしょうか?

 

意味は、表題に

書かせて頂いた通りで、

 

災いも幸いも表裏一体で、

心の持ちようで

 

いかようにも

転じるという意味です。

 

私がこの言葉に

出会ったのは、

 

『天から見れば』という

映画を拝見した時でした。

 

映画のあらすじは、

日本画家 南 正文さんの

 

生涯ドキュメンタリーで、

小学校3年生の時に、

 

お父さんが経営されている

製作所で、機械のベルトに

 

巻き込まれ、両腕を

もぎとられるという

 

大事故に遭われました。

 

奇跡的に一命を

取り留めたものの、

 

口で本をめくり、

足指でノートをとり、

 

足と肩でほうきを

支え掃除するなど、

 

不自由な生活を

余儀なくされ、

 

自暴自棄の日々を

送られたそうです。


そして中学二年生のときに

一人の女性に

 

弟子入りすることで

人生が大きく変わりました。

 

その女性の名前が

「日本のヘレンケラー」

 

と呼ばれた、

大石順教尼先生。

 

この方もまた両腕が

ありませんでした。

 

明治時代に起きた

「堀江六人斬り」の事件で

 

養父に日本刀で

両腕を斬られるという

 

被害に遭われたのです。

 

南さんはこの大石先生の

最後の弟子として、

 

口に筆を加え、

日本画の勉強に

 

取り組まれ、

最終的に海外からも

 

注目される画家に

までなられた。

 

という、ものです。

 

 

大事故にあったのが、

小学3年生;

 

910歳ですから、

その後、多感な時期を

 

両腕がないことで、

ご自身不便だったでしょうし、

 

他人と比較して

“なんで、僕は・・・”って

 

思ったでしょうし、

周囲からは

 

好奇の目で見られて、

いわれもない差別、

 

心無い言葉を

浴びせられて、

 

いわゆるどん底状態を

経験されたのだと

 

思います。

 

たしかに、

両腕がないことで、

 

起きる

(健常者と同じように)

 

出来ない事にのみ目を

向けていると、

 

ご自身の認識としては、

“全て出来ない”に

 

なってしまって、

生き辛い/苦しいのだ

 

と思います。

 

ただ、徐々に、

両腕がないご自身が

 

過ごしている現実世界を

受け入れて、

 

確かに、両腕がないことで、

気持ち悪がって、

 

差別してくる人もいれば、

何の偏見もなく

 

優しく接してくれてる人も

いるということや、

 

両腕がない分、

脚で補ったり、

 

口で補ったりして、

十分に代用できることを

 

経験したりして、

健常人と変わらず、

 

遜色なく不自由さを

感じなくなるまで、

 

努力をされたのだ

と思います。

 

 

つまり、この南 正文さんは、

 

“ありのままのご自身

(両腕がない)”

 

を受け入れたのだ

と思います。

 

受け入れることが

できれば、

 

“両腕がない”という状態は、

 

背が高い/背が低い、

男性である/女性である、

素直である/頑固である

 

と同じ“個性”になって、

ご自身を落ち込ませることが

 

無くなった訳です。

 

 

そして、

そのありのままのご自身を

 

受け入れた南さんが

おっしゃった言葉が

 

文頭に書かせて

頂きました『禍福一如』で

 

あるということです。

 

この言葉以外にも、

 

『人間万事塞翁が馬

(じんかんばんじ

さいおうがうま)』

 

;(由来)「淮南子」に

載っている話、

 

中国の北端、

国境の「塞(とりで)」の

 

近くに、

占いが得意な「翁(老人)」が

 

住んでいました。

 

 

 

あるとき、

彼の飼っていた馬が

 

逃げてしまったので、

みんなが同情しましたが、

 

彼は

「これは幸運が訪れる印だよ」

 

と言います。

 

そして、そのとおり、逃げた馬は

立派な馬を連れて

 

帰ってきました。

 

そこでみんなが祝福すると、

今度は

 

「これは不運の兆しだ」

と言います。

 

実際、

しばらくすると彼の息子が

 

その馬から落ち、

足の骨を

 

折ってしまったのです。

 

またみんなが同情すると、

彼の答えは、

「これは幸運の前触れだ」。

 

息子はその怪我のおかげで、

戦争に行かずに

 

すんだのでした。

 

 

この出来事から、

一見、不運に思えたことが

 

幸運につながったり、

その逆だったりすること

 

のたとえ。

 

幸運か不運かは

容易に判断しがたい、

 

という意味

故事成語であります。

 

喜劇王;

チャールズ・チャップリンも

 

『人生は近くで見ると

悲劇だが、

遠くから見れば

喜劇である』

と言葉を残して

いらっしゃいます。

 

すべて、

災いと思われる

 

出来事でさえも、

見る視点を変えれば、

 

幸せにも感じられる、

幸福だと思われる

 

出来事も、

見る視点を変えれば、

 

不幸であると

感じられるということ。

 

 

 

一時的に、

強烈な多幸感を

 

感じられる出来事を

見つけ出すために、

 

是が非でも、

絶望感、劣等感を

 

回避するための

匠を見つけ出すために、

 

散財する

この現代社会で

 

暮らしている人々に

とっては、

 

さんざん感情に

振り回される

 

人生かもしれませんし、

途中で気が付く

 

かもしれません。

 

知識で

 

知っていたとしても、

生き辛い/苦しい

 

 

ど真ん中にいる人が、

“この苦しみ/生き辛さが

幸福に転じるんだ”

 

なんて思えない、

後になって、

 

その時の

辛かった/苦しかった経験が

 

大切だということに

気が付けた人は、

 

きっと何物にも

影響を受けずに、

 

平凡な日常生活の中に、

この人生の主役は

 

自分自身である

という幸せを

 

見つけ出す事が

できるのだと思います。

 

 

ただ、

ひとりきりで、

 

これらのプロセスを

やり切るのは、

 

とても難しいと思いますが、

ご自身の内側から、

 

この人生を生きて

良かったと思えるように、

 

ご自身と

向き合いたいという方、

 

是非、ご連絡をください。

 

あなたの勇気を

お待ちしています。